棘間靱帯炎

サッカーとオタク。

「あれは自然災害ではない、生き物だ」――『シン・ゴジラ』感想

7月29日(金)、朝一時の回で『シン・ゴジラ』を観に行ってきました。
IMAX版でした。
IMAXだと時々CGの粗さが気になりました。
しかし、そこをカメラアングルでカバー。
絵コンテは庵野さん、摩砂雪さん、鶴巻さんだったかな?
思い切った引きの画が壮観です。

まだ一回しか観ていませんしパンフも買っていませんが、以下、ネタバレありで感想を書いていきます。
個人的には事前情報なしで観てほしい映画です。

なぜかというと、この映画、ゴジラの大暴れシーン以外はずっとキャラがくっちゃべってます。
『ヱヴァ破』でNERVの職員たちが「ヱヴァの保有台数に関する国際条約」に愚痴を言っているシーンを思い出してもらえると分かりやすいと思います。
延々とあんな感じです。
セリフを最小限にすることで重要なセリフを際立たせるのがシナリオの基本ですが、この映画は膨大なセリフの洪水の中に重要なセリフをサラッと紛れ込ませる手法を採っています。
なので、どのセリフが「刺さる」かが、視聴者によって異なる可能性が大きいのです。

まっさらな状態で観たときに「刺さった」セリフこそが、恐らく、いまのあなたの感動ポイントなのでしょう。
事前情報を入れれば入れるほど、その感動ポイントに他人のバイアスがかかってしまうことになります。
劇場で流れた予告にまったくセリフがなかったのも、そういうバイアスを避けるためだと考えられます。
(なんかセリフありver.の予告もあったと聞いていますけどね!)

というわけで、できれば自分の目で観に行ってね!

以下、ネタバレです。
そもそも小見出しが作中のセリフ(うろ覚え)になっています。

 

 

 

 

「この国はスクラップ・アンド・ビルドで成長してきた」

物語の構造としてはシンプルです。

ゴジラの出現によって、日本という国や登場人物たちの「壊すべきもの」が浮き彫りになる。
ゴジラが全部ぶっ壊す。
ゴジラとの戦いによって人々が団結し、新しい土台が築かれる。

小見出しのセリフをそのまんま言ってくれるキャラがいます。わかりやすい!

この映画の最大の特徴は、上でいう②のプロセスの扱いではないかと思います。
この映画において②は、まさに進行中であるゴジラ大暴れのさなかでは、もちろん「悲劇」として描かれます。
しかし、なんとかゴジラの凍結に成功したその直後から、「キャラや日本という国に変化をもたらしてくれたきっかけ」という描写に変化するのです。
この変化こそが、本作品の「ゴジラ」とは何なのかを示すヒントになっていると思われます。

「あれは自然災害ではない、生き物だ。だから倒せる」

これまで、「ゴジラ」と「ガメラ」の違いを端的に表現するのに、「ゴジラは人類の味方ではなく、自然災害のようなもの」ということばを用いる人がいました。
なので、敵性怪獣であるムートーを撃退して海に戻っていったハリウッド版『GODZILLA』のゴジラは、「ゴジラというよりガメラ的だ」と言われるわけです。

しかし、この映画ではゴジラを指して(たしか)何度か「あれは自然災害ではない」、「生き物なら倒せる」というセリフが使われました。
これは個人的に印象に残ったセリフです。庵野さんたちがゴジラ=自然災害説を知らないわけがありません。それを真っ向から否定しにかかっているからです。

加えて重要なのが、この映画では「ゴジラは去って行かなかった=東京のど真ん中で凍結されただけ」ということです。
しかもその凍結方法が、ガメラみたいにオカルト少女の力を借りるわけでもなく、エヴァのようなSF兵器の力を借りるわけでもなく、あくまで現代の力を結集した結果であるということも象徴的です。
要するに「消せはしないが、いまの僕たちでも克服できるもの」として「ゴジラ」を描いているわけです。
こう考えると、ゴジラは「去って行く」台風や津波ではありえません。地震震源地)という可能性はありますが、いつ起こるか分からない地震を「変化をもたらすきっかけ」と解釈するのは無理があります。
なので、ここは「自然災害ではない説」でゴリ押していこうと思います。

過ぎ去った瞬間に「きっかけ」として再評価される、「消せはしないが、克服できるもの」。
こう書くと、語彙が貧相な僕の頭にはひとつしか思い浮かびません。
「歴史」ですね。
シン・ゴジラ』の「ゴジラ」は、「歴史」あるいは「過去」のメタファー説を推していこうと思います。
(もっといい言葉があるような気がしますので、ぜひ助言をお願いいたします……)

作中で明確に言及されるのは「第二次世界大戦」ですが、もちろんここには「東日本大震災をめぐる歴史」も含まれているでしょう。
(ヤシオリ作戦の内容が福島原発の冷却作業に重なって見えたのは僕だけではないはず)

「この国に、三度も核を落とさせるわけにはいかない」

「歴史」といっても様々です。しかし本作品のゴジラは、特に意識して「第二次大戦以降の日本の歴史」を背負わされています。たぶん。
結果として、本作品は「日本でないと描けないゴジラ」という立ち位置に見事収まったといえそうです。


※「鶏が先か~」の問題で、「ゴジラを日本のものに取り返すためにゴジラに日本の歴史を背負わせた」のか、
ゴジラに日本の歴史を背負わせたがゆえに日本でないと描けないゴジラになった」のかは分かりません。
後者の方がオタク臭くなくてかっこいいので、後者ということにしておきましょう。


それを象徴するのが、「ゴジラを倒すには核しかない」と国連が言い出したあとの展開です。
ハリウッド版『GODZILLA』では、ばっちり核爆弾が爆発しちゃいました。
また、敵性怪獣のムートーが核を食べるシーンもあります。
恐らく今作のゴジラも、(新元素とはいえ)核を無力化するか取り込んで、「もう核でええやろ」と思っていた人々を絶望させる……という展開にもできたはずです。
というか、シナリオの王道的にはそうするべきです。
最高のカタルシスの前に最悪の絶望ポイントを置くのが基本ですから。

しかし、『シン・ゴジラ』は核を撃たせなかった。
核が撃たれる前になんとかしようと登場人物が結集して対応するタイム・サスペンス展開にしたのです。
僕はこの展開こそが、『シン・ゴジラ』の本懐ではないかと考えています。

本作の絵コンテを担当した鶴巻さんが監督をやっている『トップをねらえ2!』というOVAがあります。
この作品も、宇宙のどこかからやってくる、人類の力ではどうしようもな巨大怪獣を撃退するのがクライマックスです。
撃退のための最後の手段として作中の人々が選んだのが、「地球」を質量兵器として怪獣にぶつけるというものでした。
しかし、寸前で主人公たちがそれを取りやめ、別の手段で怪獣を撃退する……という展開です。
シン・ゴジラ』における核の扱いを観ているとき、僕はこの話を思い出していました。

『トップ2』でも、「一度地球が真っ二つになってしまうも、主人公たちが再びくっつける」という案が出ていたそうです。
しかし、脚本を担当した榎戸洋司さんが「一度真っ二つになってくっついた地球は、もう元の地球ではない」と主張して、上掲の展開になりました。

これと同じで、「一度核が使用されてしまった世界は、もう二度と、核が使われなかった世界には戻れない」という発想によって、『シン・ゴジラ』はタイム・サスペンス展開を選んだのだと思います。
この発想が日本という国の歴史に深く由来することは言うまでもありません。

(事実、ハリウッドちゃんめっちゃ核使いますしね……。えっ、『蒼穹のファフナー』?)

 

このことからも、『シン・ゴジラ』のゴジラは日本の歴史を背負った存在であると言えそうです。

 

「以下、略」

というわけで、『シン・ゴジラ』初見での感想でした。
たぶん二回目も観に行くと思いますが、感想変わったらどうしよう……。
ブログは「消せるし、克服しなくていいもの」だし、消します。